直接患者と接する医師や看護師などの医療従事者は、高い専門知識や医療技術を有し、ときに患者の命を預かる重要な場面に対峙することもある、公共性の高い職業です。
これまで、「患者の命を守る」という使命感から、医師や看護師が自らを犠牲にし、残業を厭わず対応される場面が多くありました。
このことは、患者側からすると本当にありがたいものですが、こうした残業の常態化は医師・看護師ら医療従事者の集中力を低下させ、あってはならない医療事故につながる危険もあります。現在は、事故防止の観点からも、無理な残業のない、より高い質の医療提供を目指し、政府による医療従事者の働き方改革が推進されています。
しかし、近年は新型コロナウイルスによる感染者の増大が原因で、医療従事者の人手不足やオペレーション機能不全が発生し、入院すべき患者が入院することすらできない、医療崩壊に近い状況が度々発生するようになりました。
医療従事者の残業問題は、こうした状況にかき消されながら「患者の命を救う」という医療従事者の想いに甘えてしまっている現状があるのも事実です。
コロナ感染に対する有効な治療薬が誕生・普及しないことには、抜本的な解決に至らないのではと言われるなか、医療従事者の残業問題も燻り続けています。医療機関によっては、時間外労働に対する認識の誤りなどから、残業代が未払いとなっていることも多々あります。
ここでは、病院・医療関連に従事している医師や看護師などの残業状況や残業代請求に向けたポイントについて解説します。
医師や看護師をはじめ、救命救急士、臨床検査技師、理学療法士、薬剤師など、病院・医療関連に勤務されている方は、資格により担当分野も細かく分けられ、それぞれの資格・役割に応じてお仕事をされていると思います。
医療従事者の人手不足やコロナ禍により残業過多と言われる医療業界で、残業代が未払いになっている場合、どのような証拠の収集が必要になるか、具体的な内容をお伝えします。
タイムカードをはじめとした出退勤の記録
タイムカードは出退勤を明確に記録しますので、一斉打刻などの悪質な運用がなければ、残業の状況を確認する上で重要な証拠となります。可能な限り控えをとっておきましょう。
勤怠管理システムを導入している場合、データで出退勤を明確に記録しますので、こちらも残業の状況を確認する上で重要な証拠となります。可能な限りデータの控えをとっておきましょう。
勤務医の場合、患者の症状悪化による緊急対応や診療時間外の患者対応、勤務時間内で対応しきれない手術など、医師の職業倫理上、最後まで患者に向き合うことで生じる時間外労働も多いため、日々の記録をとっておくとよいでしょう。患者優先で勤務されてきた医師のなかには、こうした記録をつけることに抵抗を感じる方がいるかもしれませんが、今後の職場環境の改善において、実態を示す重要な資料になる可能性もあります。
看護師の場合、始業時間よりも30〜60分前に出勤し、引き継ぎ内容や患者の情報収集にあてる「前残業」と呼ばれる労働も常態化していることから、こうした記録を控えておくことは重要です。
就業規則・雇用契約書
ご自身が勤務されている医療機関の就業規則と雇用契約書には、給与及び雇用形態が記載されており、時間外労働に関する手当内容が記されていることもあるため、未払い残業代を割り出す上で重要な資料となります。
電子カルテや看護記録などの医療記録
医師の場合、カルテや電子カルテに診療経過をはじめとする患者の状況を記録しなければなりませんが、病状の経過日時などの記載から、その日の出勤及び残業状況も把握でき、残業時間を割り出せる可能性があります。
看護師の場合、看護記録に看護師が行った業務内容などを記録しなければなりませんが、こちらもカルト及び電子カルテと同様に有効な証拠となります。
患者の状況を経時記録で時系列に記録されているケースでは、より正確な残業時間を把握できる可能性もあることから、医療記録はときに重要な証拠資料となり得ます。
しかし、患者の個人情報が記載されているため、これらの記録を残業代請求目的として個人で控えをとることは問題となりますので、個人による持ち出しは行わないようにしてください。
証拠として医療記録が必要となるかは、弁護士に相談・依頼をして対応・検討されるとよいでしょう。
ここまでお伝えした資料を準備しておくことで、残業時間をきちんと把握することにもつながり、未払いとなっている残業代も正確に割り出すことができます。
医療機関に勤務している方は、面倒でもこれまでにお伝えした資料を残すようにしましょう。
医師・看護師などの医療従事者で、未払い残業代を請求する際にポイントとなる証拠資料を紹介しましたが、これらの資料を事前に収集しておくことで、単に残業の事実を示すだけではなく、病院側と意見対立した際に、より有効な証拠となり得ることもあります。
次に、病院側と意見対立しがちな勤務形態や給与体系について解説します。
固定残業代、または定額残業代、みなし残業代は「いくら残業しても残業代は固定」という意味ではありません。「一定時間分の時間外労働、休日労働および深夜労働に対して定額で支払われる割増賃金」のことです。
そのため、固定残業代に含まれる一定時間分の残業を超えた場合には、別途残業代が発生しますが、一定時間分の残業を超えても残業代を支払わない悪質な医療機関もあるため、日々の労働時間はしっかり管理しておきましょう。
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年俸制とは、給与の額を1年単位で決めることです。月給制でも年俸制でも残業代は発生します。年俸の中に残業代が含まれる場合、基礎賃金と残業代部分が明確に区分されている必要があります。
年俸の中に残業代となる部分が明らかになっていない場合は残業代を請求できる可能性があります。
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医師や看護師長の場合、看護師を束ねたり医療従事者へ指示する場面が多いことから、すでに管理監督者としての地位を有していると思われがちです。
しかし、医師や看護師長が管理監督者かどうかは職務内容、責任と権限、勤務態様、待遇を踏まえて判断されます。管理監督者である場合、残業代は出ない代わりに、出退勤時間や勤務時間を自分の裁量で決めることができ、その地位と責任に見合った給与が支払われなくてはなりません。
そうでない場合、医師や看護師長は管理監督者とは認められず、残業代を請求することができます。
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コロナ禍により、医師や看護師をはじめ医療従事者の過酷な勤務実態が明らかとなりましたが、仮にコロナ禍のような事態がなかったとしても、残業状況をはじめクレーマー患者対応など、労働環境の厳しさを実感されていた方も多いと思います。
医師・看護師をはじめとする医療従事者の長時間労働問題は、業界特有の事情もあります。
医師法第19条第1項には、「診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。」と定められており、正当な理由がないかぎり、医師が診察治療を拒否してはいけない義務を負っています。
そのため、医師・看護師も患者のために尽くす気持ちが強い方ほど残業が日常的になっています。
2024年4月1日からは、医師も働き方改革関連法における時間外労働の上限規制が適用となるため、応召義務と働き方改革の整合性をどのようにとるかは議論となっています。
厚生労働省では、医師や看護師、薬剤師をはじめとする医療従事者不足に備え、医師や看護師、薬剤師などが職種の垣根を超えて仕事を分担する「タスクシェア」や、医師の一部業務を看護師に移管する「タスクシフト」の推進にむけて動き出しています。
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少子高齢化が進む日本では、高齢患者が増え、診察や治療に時間がかかることや、少子化による医療従事者の人手不足が指摘されています。
医師の長時間労働を軽減していくためには、AIやIoTをはじめとするIT技術の活用だけではなく、さまざまな角度から見直しを検討し、柔軟に対応していかなければなりません。
単に人手不足や長時間労働を軽減するだけではなく、医療の質を向上させることも目的とされ、今後も多くの議論を交わしながら、改善の骨子を探っていくことになるでしょう。
看護師業界でも長時間労働などの問題に対し、2021年3月に日本看護協会は「就業継続が可能な看護職の働き方の提案」をまとめ、過去の看護職の時間外労働に対する問題と、その問題に対する改善提案が記されています。
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この提案書は、国の働き方改革関連法を受けて、看護職の新たな働き方の提案が記されていますが、時間外労働についてもさまざまな取り組みが記載されています。
可視化されない時間外勤務として、研修の参加や事務作業等の自宅への持ち帰り業務、引き継ぎのための前残業などの問題点があげられ、これらの実態をきちんと把握し、所定労働時間に取り込むことなどが提案されています。
勤務医においては宿直・当直勤務がある場合、勤務時間も不規則になり、体調をコントロールする必要もあるため、他の仕事と比べても重労働であるといえます。
医師における宿直勤務で問題となるのは、仮眠時間の取り扱いです。仮眠をとっている時間が使用者の指揮命令下にあるかどうかが焦点となり、取り決めが曖昧になっている場合は労働実態により、この時間が労働時間と判断されることもあります。
医師の当直・宿直勤務における断続的な業務に対しては、定時巡回や少数の患者の定時検温等、特殊の措置を要しない軽度又は短時間の業務に限り、充分な睡眠がとれるなどの要件を満たせば、労働基準監督署長からの「宿日直許可」を受けることができます。宿日直許可を受けることで、使用者は時間外労働における残業代支払いの必要がなくなります。
仮眠時間でも、患者に緊急対応が発生すればすぐ対応にあたらなければならないなど、労働から完全に離れることができないケースでは、断続的な業務とみなされず、労働時間と解釈さる可能性があります。
こうした事情から、断続的な宿直・当直勤務の労働時間に対する解釈が争われることもあります。
働き方改革関連法により、2024年4月1日から医師においても時間外労働の上限規制が適用となりますが、もともと医療従事者の長時間労働は問題となっており、上限規制適用については、労働環境を整備するための準備期間が必要と判断され、当面の猶予となっています。
医療従事者の長時間労働は問題が根深く、「患者の命を守る」という公共性の高さから、業務をひとつずつ見直しながら丁寧に改善を進めていくことが求められています。
こうした状況にありながら、時間外労働に対する認識の誤りから、本来支払われるべき残業代が未払いとなっているケースもあり、退職時などに使用者側と医療従事者の間でトラブルとなることもあります。
未払い残業代の請求については、ご本人で行うこともできますが、使用者側が前向きに対応してくることはまれです。また、在職中の残業代請求は、使用者側との関係性が悪化する恐れもあり、正当な要求であってもトラブルになることがあります。
そのため、未払い残業代の請求は、退職前に証拠集めの準備を進めておき、退職後に未払い残業代を請求する流れが多くなっています。
なお、弁護士を代理人に立てて残業代請求を行えば、病院側は無視しづらくなるため、ご自身で対処するより適切な残業代の回収・交渉を進めることができます。
医師・看護師などの医療従事者で、未払い残業代を請求したいと考えているときは、まず弁護士へ相談し、依頼をするべきかどうかを含め、検討されることをおすすめします。
小湊 敬祐
Keisuke Kominato
働き方改革やテレワークの導入による在宅勤務など、社会情勢の変化により企業の残業に対する姿勢が変化しつつあります。一方で、慢性的な人手不足により、残業が常態化している企業もあり、悪質なケースでは、残業代の支給がされていないこともあります。ご依頼者の働きが正当に評価されるよう、未払いとなっている残業代の回収を目指し、活動を行っています。